2021/02/24

見えると思えるものが見える絵には何が見えるか



 ゼミで知り合った小林さんから、チョー面白いと思うから是非見てみてと、個展の案内を手渡された。彼女の従妹が作った絵を展示するという。

「作った絵?」

絵は描くものだろう。それは単なる言い間違えなのか、それともあえてその言葉を選んだのか、聞いてみたけど顔は笑いながら、説明するのは難しいと言われた。
手渡された案内葉書に目を落とすと、全面がピアノのように真っ黒に印刷されている。印刷には強い光沢が有り、やや反ったその表面を見ると、細長く変形した自分の顔が写って見える。

裏返すと、裏面は白い普通の葉書だった。下半分に場所と開催期間が記載されている。日付を見ると、展示は2月17日からとある。明日からだ。

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電車を降り、駅を出て商店街の通路を通り抜け、踏切を渡り、国道を跨ぐ歩道橋を降りたすぐの所にそのギャラリーは有った。想像していたより小さい。
実は僕はギャラリーと言われる所に来たのは初めてで、頭の中では美術館のような建物を想像していたのだけど、見た所その建物は昭和の昔に出来たらしい木造2階建ての、店舗が左右二つで繋がっているものだった。二階には窓が有り、住居になっているようだ。

左隣の店舗には、窓に物件の間取りを隙間なく貼った昔ながらの不動産屋が入っている。これを見ると多分、右側のギャラリーも元は何か別の店だったのだろう。

透明なガラス製のドア越しに中を覗いて見ると、白い壁に、黒い大きな絵が何枚かかかっているのが見えた。時刻は昼の12時を過ぎていて確かにオープンの時間のはずなのに、中には誰もいなそうだった。

ここは呼び鈴を押して入るのだろうか? でも、見回してもそんなものは見つからない。勝手に入っても良いのだろうか?  僕はもう一度、ジャケットのポケットに入れておいた案内を取り出し、黒い表面が表に出てきたのでひっくり返して開催の日付と時刻を確かめた。確かに今日の昼からだった。

アルミの棒で出来た縦長の取っ手をそっと押し、ドアを開いてみた。中は暖房が効いていた。絵を照らす天井のスポットライトが点灯している。足を入れて中に入ると、ドアはバネの力でゆっくり自動的に閉まった。ドアが閉まると表通りの車の音は小さくなり、代わりにエアコンの送風音が聞こえる。

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縦に畳一枚分は有りそうな大きな絵が、左の壁に2枚、右は、受付のテーブルの置いてある奥の壁に1枚、合計3枚飾られていた。絵の横にはA4サイズ位の説明書きが添えられていた。
絵には額縁は無く、厚いパネルになっている。驚いたことに、3枚の絵はどれも全面真っ黒だった。

なるほど、案内の葉書が黒かったのはこういう意味だったのか。
近づいてよく見てみると、それはただ一色の黒ではなく、微妙な濃淡を付けて、米粒サイズの複雑な形の模様がびっしり印刷されている。それらは確か平らな面に印刷されているのだけど、見ようによっては細かな凹凸が見えてくるような気もしてくる。

ふと絵の横を見ると、説明書きだと思った物には字は書かれていなかった。その代わり、モノクロの細かい線で、写実的なイラストが描かれていた。

左の一枚目の絵の横にあるイラストは、草むらの中にうずくまり、ちらりとこちらを見ているウサギの絵だった。それは漫画のようなものではなく、写真の印刷技術が発達する前の昔に刊行された百科事典に出ているような絵だ。

何故ここにウサギの絵が飾られているのだろう? それとも、ギャラリーに飾られる絵というのはこちらの方で、黒いのは絵では無いのだろうか? だとしたらこの黒いのは、何だろう?

改めて隣に掛けられている、巨大な黒いパネルを見てみると、先程は気が付かなかったが極薄っすらと、隣のウサギと同じウサギの絵が印刷されている事が分かってきた。

いや、薄っすらとではない。目を凝らしてみると米粒サイズの模様の一つ一つに濃淡が付けられている。気づかなかったのだ。そうと分かればかなりハッキリとウサギが見える。
しかも、隣のイラストに比べるとこちらの方はかなりリアルだ。毛は黒うさぎの艶が鮮やかに描写されており、触ればふさふさとした感触まで手に伝わってきそうだし、目には瞳の虹彩が微細に書き込まれていて、艶かしさを感じる位だ。

しかし、何か変だ。そこに描かれているのは確かにウサギ、耳が長く毛のフサフサと柔らかそうなウサギなのだけど、でもなにか違うような感じがする。何でだろう? 顔の方をよく見てみると、ウサギには有るはずのヒゲが描かれていない事が分かった。これが違和感の原因だったのだろうか?
隣りにある、小さいイラストの方を見てみた。そのイラストは、描き方こそプリミティブな線画ではあるけど、改めて見てみると大きい黒い絵の相似形になっている事が分かる。そのイラストの顔の部分を見てみる。
そちらのイラストの方には、数こそ漫画チックに数本に省略されていたが、ちゃんとヒゲは描かれていた。すると黒い大きな絵の方には何故ヒゲが無いのだろう?

しかしさらによく見てみると、極薄いコントラストではあったが、確かに細いヒゲが本物のウサギのように沢山描かれているのが見えてきた。どうも絵の表面に特殊なフィルムが貼られている様子で、見る位置によって絵の見え方が変わってくるようだ。初めはただの黒い壁面のように見えた絵も、見慣れてくるとちゃんと絵が見えるとは、これは実に面白い。小林さんが言っていたチョー面白いと言うのはこの絵の事だったのか。

他の絵も見てみようと身を巡らすと、奥の階段から一人女性が降りて来るのが見えた。そこに階段が有ったなんて気が付かなかった。ギャラリーは2階に通じているようだった。

「あら、こんにちは。いらっしゃいませ」

とその人は言った。

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「そう。カナちゃんのお知り合いの方ね? 来てくれてありがとう。 どうその絵? 何か見える?」

ギャラリーに在廊していたのは、知り合いの小林さんの従姉妹でこの絵の作者の小林さんだった。名字が一緒なのはたまたま結婚相手の名字が小林だったからで偶然との事。彼女は黒いゆったりとした、分類するとワンピースなのだろうけどなんとも言えないいかにも画家の人が好んで着そうな服を着ていて、それが刈り上げの髪型ともよく似合っていた。

「その黒いウサギの絵の事ですか?  ええ、パッと見た時には見えづらかったですが、コツを掴めば見えるようになりました。これは面白い仕組みですね。どういう原理ですか?」

僕の言葉を聞いて、小林さんは大げさに満足そうな顔をした。そして、隣に有る絵のところに歩いて行ってその絵を指差した。

「こっちに描いてある絵も、分かる? 何が描いてあるか? 見える?」

その絵の隣には、ウサギの絵と同じ様にA4サイズ位のモノクロのイラストが掛かっている。そこには毛皮の毛が顔の周り一周を縁取る厚いコートを着た、多分イヌイットの多分女の子の顔のイラストが描かれていた。そして、その隣の黒いパネルには、ウサギの絵と同じようにそのイヌイットの子供の顔が大きく描かれていた。

「ええ。解ります。イヌイットの子供の顔ですね? 隣のイラストと同じ絵が描かれていますね」

その言葉で、小林はますます満面の笑顔を浮かべた。可笑しくておかしくて仕方がない感じだ。ギャラリーをゆっくり歩く小林さんの姿を目で追って行くと、反対側の壁に掛かっているやはり小さいイラストに大きな黒いパネルという同じ構成の絵が目に入った。

「じゃあこれは? これには何が描いてあるのが見える? あ、チョット待ってね。隣のイラストを隠すから。そうしたら何が見えるか、教えて」

そう言いながら、彼女はイラストの前に立ち後ろのイラストを隠した。しかし、僕はそれより少し前にそのイラストを見てしまっている。一輪挿しに挿された一本のガーベラだ。それで僕は、今までの流れからして当然隣のパネルにも同じ絵が描かれていると思った。

しかし、今回のパネルには何も描かれていない。ただ黒一面に、よく見るとカーボン繊維のような細かく規則的な模様がわずかに光を反射して見えるだけだった。まだ目が慣れていないのだろうか? それとも、壁の光の当たり方の差が見え方の差の原因だろうか? 

僕の表情を察した小林さんは、いたずらっぽい笑みを浮かべつつ体を横に移動した。その裏に隠れていたガーベラのイラストが見える。ふと見ると、パネルにも同じ絵が描かれている事が分かった。やはり展示は他の絵と同じ構成だった。しかしなぜ小林さんはイラストを隠してみせたのだろう?

僕は言った。「花瓶に挿した花が描いてあります。ええっと、でも、その隣のイラストと黒いパネルの間にはなにか関係があるのですね?」

小林さんは素早く数回頷いた。そして、「実は、」と勿体を付けて言った。

「どのパネルにも絵は描かれていないのよ」

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僕と小林さんはギャラリーの二階に上がった。

そこは、引っ越しで何もかも片付けてしまった後の部屋の様に何も無くがらんとしていた。フロアにはただ、丸くて背もたれの無い赤い椅子が4つ、中央に、部屋の重さを支えるかのように置かれていた。壁は全部白く加工されていた。二階も展示が出来るようになっているようだったが壁に展示は無く、その代わり部屋の奥の窓際に一つPCが置かれているだけだった。

PCには比較的大きなモニターが一つ繋がれていた。モニターは窓の右横の壁に、窓の縁にピッタリと付けて置かれている。

「いい? 目で見ているものはそこに、その見たままの姿であると普通は考えるでしょう? 例えばその椅子。あなたにはその椅子が見えるでしょう? それは椅子でしょ?」

「ええ、まあ」と僕は答えた。確かに椅子だ。丸い椅子の表面はベルベットで覆われ、詰められたクッションがそれを膨らませている。あれも作品? それとも椅子として普通に座っても良いものなのだろうか?

「それはね。椅子だと思って見ているから椅子に見えるの。でも想像してみて。椅子の4つの足が、木でできた椅子の足じゃなくて、」

と、小林さんは言いながら、手を僕の前に突き出し、指を床に向けてピアノの鍵盤を叩くように動かして見せた。目を覗きこまれる。プラスティックのように主張の強い、人工的な香水の香りがした。

「自由に動く動物の足だったら、ウロチョロ動く動物だと認識されたら、どう? 椅子に見える? それとも赤い色をした小象にみえるかしら?」

小林さんは歩いて、奥の窓際に移動した。遅れて僕も付いて行く。

「安心して。それは本物の椅子よ。でも、これを見てくれる? 何が見えるか教えて」

そう言って指したのは窓の横にあるモニター。そこには極荒くチラつくドットで描かれたモノクロの映像で外の景色がリアルタイムに映し出されていた。

小林さんは話を続けた。

「柳の樹の下に幽霊が見えるっていうじゃない。あれも同じ原理だと思うの。風にそよぐ柳の葉がちょうど視覚野の定常波と同期する時、そこにイメージが見て取れるのよ。それはそれを見た人がそこに有るべきものと心が感じている映像。検証はしていないけど多分そう。

これ、外の景色が見ているでしょう? でもよく見て。例えば左から道を走る車、」

建物は大通りに面していて、窓からは道を走る車が見える。ここは都会にしては車の通りが少ない。近くに交差点が有るのだうか、時々数台の車が固まって走ってくる。
窓に見える車は、窓の視野を過ぎ窓枠の死角に入った後、引き続きモニターにその走る姿を写している。
小林さんは窓から見える一台の車を指差し、車の動きを追って腕を動かしながら説明を続けた。

「窓に見える車が左から右の方に走って来て窓枠に隠れた後、モニターにはその走ってゆく車の続きが見えるでしょう?

でも反対に、右側から走ってくる車は、窓に見え始めてからでないとこのモニターには見えない。よね?

これも下の黒いパネルと同じように、本当は何も写していないの。ただ、それぞれの運動によって視覚を刺激するドットが表示されているだけ。見ているものはあなたの視覚野が無意識に作り出した幻覚なのよ」

「いい?」と、小林さんは再び言った。

「人が自分の目で見ているもの、それはみんな夢なの。眠っている時に見る夢の映像と同じ、ただ無意識が作り上げた夢の中の映像と同じなの。ただ覚醒時は現実からの刺激でちょっとずつ修正されるから、普通は現実とそれほど乖離は起こらなくて、だからそれほど不都合は起きないだけ。でも目が覚めているときでも、例えば柳を見ればそこに幽霊を見てしまう。このモニターのように。条件が揃えば」


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「表現というのは自分の心の内を表に表す事と思われているフシが有るでしょう。でもちがう。見た相手がどう感じどう考えるか、相手に伝えたい、相手に伝える気持ち、それが表現なのよ。人がただ自分の好き勝手に制作するモノはオナニー。それは自己満足。

芸術の一体何が、人を傷つけ、人の心に爪痕を残すのか。それはその人自身なの。人は芸術に自分自身の何かを見るから傷つくのよ。自分の心のうちにある一番見たくないものを見せられるから、自分は社会に居られな人間であることを自覚され、それでいいたたまれない気持ちになるわけ。それが芸術なのよ。

だけど、そんなものを人前に見せたらどんな騒ぎが起こるのか解らない。予想ができない。それはとても恐ろしい事。だって、もしかして、馬鹿な人がこの中に、ある歴史上の真実を表す象徴を見るかも知れないでしょう? 例えばただ黙って椅子に座る女の子とか。そしてそれはその人にとってもしかすると、とても受け入れられないものかもしれない。そしてその人が、いわゆるその、ええと、偉い人だったら始末に悪いでしょう。

それが、そこには何も描いていないとしてもよ。その人が見たものが、その人自身が勝手に頭の中で想像したものだとしても。それはその人の解釈に過ぎない、はっきり言ってその人の頭の中で起こっている事に過ぎない、ただその人の、その人の心の中でだけ起こっているその人の問題なのに。

でも結局の所、コミュニケーションと言われている事のほとんどは、相手の勝手な解釈に依存しているのよ。馬鹿には何を言っても通じないのよ。頭の中で勝手に変換されちゃうから。

この絵はその事を表現している。解かる? 解かってくれるのなら、一枚あげるわあなたはカナちゃんの知り合いだし」

僕は是非欲しいと言った。それは欲しい。
小林さんは受付のカウンターの下から、A4サイズのパネル取り出し、僕に一枚手渡してくれた。表面には薄く透明なシートが貼られ、そのシート一枚分の厚さの奥に、濃い灰色の背景の中に黒く輝く、規則正しく並ぶ米粒大の円が印刷されている。

「これはあたしが今まで作った中で一番刺激が強いパターンよ。他のは映像を見るためのヒントが必要だった。逆にその制限が、展示の安全性を担保していた。でもこれは、他に何も見なくてもこれを見るだけで、そうね、そよ風に揺れる竹林をラリって見る感じよ。もしかすると音も何か聴こえてくるかも知れない」

そのパネルを見ると、今でも薄っすらと微妙に、糸が絡まった阿寒湖のマリモのようなものが見えているのが分かる。しかも、角度を変えて見るとホログラムの写真を見ているときのような奥行きと立体感を感じた。

「これは絶対人には見せないで。静かな場所で、自分一人だけで見て欲しいの。分かるよね?」

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自分のアパートに帰り、さっきからその、食卓の上に置いたパネルを見ている。

これは自分の無意識が自分の意識に見せる映像を、意識下においてそれと知りつつ見ることが出来る絵。目が覚めていながら夢を見ることの出来る絵だ。夜見る夢が自分の思う通りに見ることが出来ないのと同じように、この絵に写る映像がどのようなものになるか、見る自分自身でコントロールすることは多分出来ない。無意識は自分のものでありながら自分でコントロールすることが出来ないものなのだ。

今は何も見えない。ただ、その薄っすらと見えるおろし金のような模様を見つめている。

今日は諦めて寝ることにした。ウチには絵を飾る洒落た場所もなく、仕方がないのでパネルは冷蔵庫のドアに磁石で貼り付けた。

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朝だ。起きて気になるのはそのパネルだ。早速見てみると、今日は何と、何やら棚のようなものが写っているのが見える。

それが何なのかはすぐに分かった。冷蔵庫の中身だ。しかもご丁寧に、顔を動かすとそれに応じ、パネルがまるでガラス窓になって中を覗いているかのように映像も動く。

飲みかけのワイン、バター、昨日食べそびれた焼き鮭…つまり今の僕の心の関心事はこの、冷蔵庫のスカスカの中身と言うことか。

しかしドアを開けなくても中身が確認できると言うのは、考えようによっては便利だ。面白い。
おもむろに冷蔵庫のドアを開けてみると、実際の中身とレイアウトはパネルに写った映像とはかなり異なっていた。映像は記憶を元にしているのだろう。記憶とはいい加減なものだ。

ドアを閉め、改めてパネルを見てみると、映像は直前に見た冷蔵庫の中身に変わっていた。何の断りもなくこっそり間違いを訂正してしまうとは、自分の無意識というのはつくづく現金なものだ。そして、そういう無責任で一貫性の無い自分の内面は見たくないものだとも思った。

僕は小林さんが言っていた芸術の定義を思い出した。

2021/01/29

大人になってもサンタクロースを信じている人の話


・イントロダクション

私とゼミ生のMは、現代における信仰の研究の一環として、大人になってもサンタクロースを信じ続けているというT氏に会い、インタビューをさせてもらった。

T氏は現在30代独身一人暮らしの男性。国内の大学を出て、東急電鉄沿線上に有る小さなIT企業に務める。サンタ信仰以外には政治的にも宗教的にも偏った信条は無い様子で、一般常識が有り、世間の様々な話題に対して終始冷静に中庸の姿勢を保っていた。読書や見る映画でフィクションにのめり込む事はまれで、読むのはもっぱらノンフィクションとの事。

我々は某所に有る喫茶ルノアールで飲み物を飲み、サンドイッチをつまみながら話を聞いた。氏は紅茶の味をお気に召したようで、ルノアールの紅茶はよく効くと言ってお代りをしていた。

氏の話題は途中であちらこちらに広がり、大いに盛り上がり、インタビューの時間は3時間あまりに及んだ。以下の原稿では、関係のない部分をカットしサンタクロースの部分を抜萃してある。

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 この話題については、最初にはっきりさせておきたいと思います。現代の、クリスマスに子供に送るおもちゃのプレゼント、あれは親が買い与えています。子供だった知っています。現代日本においてクリスマスは、おもちゃ界の商業イベントです。
そして今は少子化でしょう? おもちゃも明らかに、対象を大人に広げようとしていますよね。特に見事に変形する超合金は、大人にとってもガジェットとしてとても魅力があります。でも凄く高いし、それにおもちゃというのは大人にとっては、基本的に何の役にも立たないただの飾りですよね。それを買わせるためには何でもいいから切っ掛けが必要なのでしょう。

 もちろん、私が子供の時代だってそうでしたよ。ある程度年齢が行った時には、友達も口々に言っていました。これ親に買ってもらったのは知っているけど彼らを喜ばせるために知らないフリをしている、って。
でも、その彼らの前では口には出さないけど心のなかではサンタさんを信じている、と打ち明けてくれた友達もいましたね。
親とサンタは結託している、というハイブリッドな信仰を抱いている友達もいました。

私は信じているか、ですか? そうですね、説明はちょっと難しく、話は長くなりそうですが、良いですか?


・1度目のプレゼント

 私自身ですが、クリスマスには2回、ブレゼントを貰っています。でもこれがサンタクロースからのものなのか、それとも親が買い与えてくれたものなのか、確信が持てません。なので、これを証拠として信じている訳ではないです。

貰ったときの気持ちですか? その時の状況を含めて?

そうですね、最初に貰ったのは絵本でした。

 ウチでは、それまでクリスマスというものを祝ったことが有りませんでした。なので、朝、自分の寝床の近くに包み紙に包まった何かが置いてあったのを見ても、それが何かと言うのは全く分かりませんでした。親に聞いても知らないというのでますます分かりません。

包を開けてみたら、今でもよく覚えています。バーバラ・クーニーのルピナスさんという絵本でした。ご存知ですか? その時私は4歳でした。この本は4歳の男の子にとっては分かりやすい話では有りません。当時の私にはルピナスさんの行動原理が全く理解できませんでしたね。後になって不条理という言葉を覚えましたが、それに近い感覚は抱いたと思います。でも、年をとって思い出すとこれ分かって来るんですよ。人生の折々にふと、あのストーリーを、あの絵本の場面場面を思い出すんです。
そうそう。ギックリ腰とか(笑)

 サンタの話でしたね。その本がサンタクロースからのプレゼントだと知ったのは、数日後、友達の家に遊びに行った時でした。
確かテレビゲームだったと思いますが、新しいおもちゃがあって一緒に遊びました。それは彼が言うには、サンタクロースがプレゼントしてくれた、という話だったんです。

私もその当時は、クリスマスというものがどういうものかはぼんやりと知っていました。街はクリスマスの飾り付けで溢れますし宣伝もしていますしね。でも、さっきも言いましたがウチではクリスマス、というか年中行事みたいなものは一切していなかったし、4歳から通い始めた保育園でも何故かクリスマスはしていなかったんです。なので、本当に自分のところにプレゼントが届いても、それが何だかは解らなかった。

でも、彼の話を聞いてビビッと理解したわけです。そうか。あの包み紙にくるまれたプレゼントは、サンタクロースからの贈り物だったのか、ってね。でも、この事は親には黙っておこうとも思いました。親だけではなく誰にも言わないようにしておこうと。

何故秘密にしようと思ったかですか? うーん。そうですね。なんとなく、なんとなく漠然とですが、しかし強く、本当に、雷に打たれたように強く、本当に本当の事、本当に大切な真実に触れた、という気がしたんです。

この感覚はずっと続きました。いえ、今でも続いています。後に自分でも徐々に、世間一般でのクリスマスプレゼントの真実を知るようになりましたが、でも自分の知ったこの事実はレイヤーが一つ違うところに有る、今時分が住んでいるこの世界とは別の世界にある真実という気がしていました。ええ、今でもそういう気がしています。


・2度目のプレゼント

 次の年にサンタさんに貰ったのは、レゴブロックでしたね。かなり大掛かりなセットで、部品の数と種類が沢山有って何でも作れるものでした。
実はその年は事前に、友達に聞いてサンタクロースのことを色々調べていました。どんな物が貰えるのか。なぜ貰えるのか。どうしたら自分の欲しい物を伝えることが出来るのか。
複数の友達から聞いたところによると、ただ願えばそれが貰えるとの話でしたので、それで自分の欲しい物を願ってみる事にしました。

その当時は缶詰が大好きだったのでそれをお願いしてみました。ええ、缶詰です。鮭とかミカンとか、そういうのです。普段ウチではあんまり食べませんでしたが、たまにお歳暮とかで頂く事も有り、とても嬉しかったんです。
そして、自分で自分が何をお願いしたのか忘れないように、それをノートにメモしておくことにしました。だって、あとになって振り返ってみて、忘れていたり思い違いをしたら嫌でしょう? それは人にはわからないように暗号で書きました。絵を組み合わせて描いて、後で自分だけがわかるようにしたんです。そして、そのノートは誰にも見られないように注意しました。

これは自分にとって重要な実験でした。そうやって、試してみようと思ったんです。
実験をするなんてそれは不敬だと思われるかもしれませんが、しかし子供の思いつくことですからね。その時の自分は子供でした。仮に自分がサンタクロースであったとしても、子どもたちにそういうテストをされたら喜んで、面白がって応じますよ。

 しかし、先程も言いましたが貰ったのは意外にもレゴブロックでした。
確かにレゴブロックも欲しいとは思っていたんです。保育園では、自由時間にはいつもレゴで遊んでいましたから。時たま自分でも傑作だと思うものが出来るのですが、でもすぐ壊さないといけないんです。残念に思っていました。家に持って帰りたいなぁと。

それで、その日大喜びして早速組み立てていたら、それを見た父親が「説明書通りに作らないのか? それだと説明書の完成品と形が違ってしまうのではないか?」と聞いてきました。それで私は、自分が作りたいものを自分の頭で考えて作っている、と答えると彼は随分喜んだのが印象に残っています。彼は昔から若干アナーキーな所があって、人が権威に逆らう事を喜ぶフシが有りました。年をとった今でも、政府のする事やしない事をいちいち批判していますよ。まあ、子供の頃から自分の身近である種の人間の典型的なサンプルを見られて、勉強にはなりました(笑)
ウチの家庭で一般的な年中行事を一切行わないのも、彼の思想を反映しての事でした。

ああそう言えば、父親もそのレゴブロックの出どころを、何の疑いもなくサンタクロースと述べていた事を思い出しました。今思うと、父とはその件で何の疑問も疑いもなく、当然のようにサンタさんからの贈り物という認識を示していましたね。それは当然の前提という感じで、全くスムーズにコミュニケーションが取れていました。彼はクリスマスを祝わない人なのに、今思うと不思議です。

 そうそう、それでサンタクロースにした願い事の方ですが、それが何とですね、家の食料戸棚を開けてみたら、いろいろな種類の缶詰が幾つかずつ入っていたんです。
聞いた所それは両親が買ってきたものだったのですが、それが、普段は寄らないスーパーにたまたま行ったらたまたま値引き品として売られていて、そしてふと私がそれを好きだということを思い出したので買ってきたと言うんですよ。

偶然にしては凄いじゃないですか。それでその時つくづく思ったのは、誰も見ていなくても、誰も気づかなくても、サンタさんはちゃんと見てくれているのだなと言うことでした。自分が書いたノートを見返してつくづく思いました。

 それにしても興味深いのは、その時の直接のプレゼントはレゴブロックだった事です。
その前は本でした。
食べ物は食べ終わってしまうと無くなりますし、子供が欲しがりがちなキャラクターグッズみたいな物も、どんなに夢中になっていても時期が来るときっと飽きてしまいます。しかし、絵本とか、それこそレゴブロックといったプレゼントは、貰う人の一生を益するものです。やはりこういうものこそ、本当の意味でのギフトだと思うんですよ。

実を言うと自分がITの仕事につくことが出来たのも、子供の頃レゴに夢中になっていたのが遠因ではないかと考えています。レゴという遊びはプログラミングに通づる面白さが有るんですよ。本当に良いものを、良い時期に頂いたなと感じています。
ああ。ええと、もちろん缶詰も喜んで頂きましたよ。

サンタクロースからのプレゼントはそれが最後でした。


・なぜサンタクロースからのプレゼントは物なのか

 寂しいとかそういう気持ちは無かったです。実のところ、自分は別にプレゼントが欲しいわけでは有りませんでしたから。と言うのは、欲しい物が有った場合は親に言えばすぐに何でも買ってもらえたんです。小学生のときは電子ブロックとか天体望遠鏡とか、高価なものを買ってもらって友達からも羨ましがられました。
それはずっと続いて高校生になっても音楽プレイヤーとかデジタルカメラとかを、買ってもらったり親のお下がりをもらったりしていました。

今も、自分は独身ですし、必要なものとか、それからただ欲しいと思ったものも、誰に遠慮する事もなく買っています。でも、欲しい物が手に入る環境で育つと、物ってかえって欲しく無いんですよね。満たされているので逆に変な欲求も高まらないし、物がどんなものかも知っているから下らない物に憧れたりもしません。所詮物は物です。

 ただ、不思議なのは、どうしてサンタクロースは子供に対して物を上げるのかということなんですよ。しかも、飢えている子供に食べ物とか、貧乏な子供の家にお金とかじゃないんですよ。ただのおもちゃで、それも大抵は裕福な家庭の家の子供に配られます。まあ、大抵は親が子供に買い与えていますから、それらひっくるめて全体を見てしまうとそういう印象を受けるという事も有ると思います。

ええ、ええそうです、親が自分の子供に対してプレゼントを買い与えていると考えると大方の説明は付きます。実際それは本当にそういうケースがほとんどだと思います。

 ただね。こう言っておいて何なのですが、世の中には人間がいくら考えても解らない事って有ると思うんですよ。人がする行為に紛れて、サンタクロースがする行為もあるのではないか、と思うんです。

不思議といえば、人の体の作りだって随分不思議ですよね?
多くの人は自分がなぜこの世に生きているのか、不思議に思いません。自分には何故人はそれを不思議に思わないのか、全く理解できません。だって、DNAの中には人の構造が設計図として入っている訳ですよ。そしてその中の必要な部分が必要に応じて紐解かれ、タンパク質が作られるわけです。細胞一つの中に、機能が分かれた部品、というかそれ自体がもう生き物みたいなのがウジャウジャいて、それで生命が維持されているんです。こんな小さな細胞の中で。こういう事実は、知れば知るほど不思議だと感じます。

 それでですね、ちょっと自分の考えを述べてもいいですか? それらは物なんですよ、全部。人も究極的には原子分子電子が作り出すモノなのです。しかし、モノであるはずの人はこんなにも豊かな世界を内包し、こんなにも不思議で満ちている。
これはつまり、まあちょっと飛躍するのは認めますが、多くの人が「自然」とか「当たり前の必然」とか、そのように思っているものの中に、どこか超自然とか必然ではない意思の働きみたいなものが作用いているという事だと思います。

その働きの実態はなんなのですかね。私もわからないのですが、まあ当然です。人にはわからない話だと思います。
自然と不自然、必然と自由意志、これはら、傍から見るとどっちがどっちだか分からない現象です。大体、人は無意識に決定し行動するその行動原理を自分で知ることは有りません。とすると、その無意識が全て自分のもの、自分の体の中からだけで湧き上がってくるものかどうかって、分かりませんよね? 創発はなぜ起きるのか。この我々の世界からだけ考えているのなら、永久に謎のはずです。

なので、これは多分、あちらの世界の境界が何らかの形でこちらの世界に繋がっているのではないか、と、漠然とですが考えています。異世界と接するメンブレーンのようなものを原子一つ一つが構造として内包していて、その構造を通して世の中のすべてのものがこちらの世界とあちらの世界、世界間で通信をし、お互い影響しあっている。と考えてはどうか、と思っているんです。

 そして、これは本当に漠然と、何の根拠もなく個人的に考えているのですが、そのメンブレーンを介してあちらとこちらの情報交換をするのには何らかの規則や法則があり、人が一般的に宗教について考えるほどには自由が無いのではないかと思っています。
なので、こちらは人が思っている頭の中の思念でもサンタクロースに届き、しかし向こうからこちらに向けて届くのは物、それも、なぜか分かりませんが子供のおもちゃや絵本だけなのではないか、という風に考えています。
おもちゃは、あちらの世界のサンタクロースからこの世界にいる子供への、何らかの思惑が込められた情報なのではないか。と、そういう風に考えているんです。

とは言えこれはまだ考えている途中の理論で、もっといろいろな本を読んで証拠を集めて、検証してゆかなければなりません。


・名前、呼び方

 未だに分からないんですよ。サンタクロースの正規な呼び方がサン・タクロースなのか、それともサンタ・クロースなのか、あるいはサンタク・ロースなのか。
お店のドン・キホーテの事をよくドンキって言うじゃないですか? 同じようにサン・タクロースの事もサンタって言っているんではないかと・・・

いや自分は昔、映画俳優のブルース・リーってご存知ですか? そう、カンフー映画の。その人の名前をずっと、ブルー・スリーだと思っていたんですよ。それがある時、本当の名前はブルース・リーだと知ったわけです。自分の中で有る種の、世の中に対する安定した認識のようなものが瓦解しました。一つの安心感が消えたんです。ものの見え方が変わったんです。
例えば、ヘレン・ケラーっていますよね。その人の名前は本当は、ヘレンケ・ラーだと知ったような気がしたんです。まあ、この事は誰にも言っていません。あなた達に打ち明けたのが初めてです。おかげで世間では笑われずに済みました。
でもね、世には源氏名を名乗る人もいるじゃないですか。そういう、人が知らない本当のことが世の中には有るのだな、という世界観は抱いて生きています。

 ああ、サンタ・クロースが正しいんですね? セント・ニコラウスが訛ったもの? へー初めて知った。じゃあ外国人にはサンタクロースって言わないでセントニコラゥスって発音した方が通りが良いですね。え? 英語圏でもサンタクロース? そうなんだ、ややこしいですね。


・クリスマスについて、心を痛めいてる事

 今の時代、世間で一般に行われているクリスマスの儀式は、もともと意味の有った何かが全く無意味に形骸化したものだと思います。
もみの木、星の飾り、リース、ターキーを食べる事、プレゼントをしあう事等、今でも続く儀式。全てとは言わないけれどほとんどはもとの形から大きく変わった、あるいは元々あった何かの形だけを表したもに過ぎません。大体キリスト教とクリスマスの関係からしてもともとはほとんどこじつけの恣意的なものですし。

カーゴ・カルトってご存じですか?
そうそう。第二次大戦中、南方の島で、アメリカ軍が物資を投入するのを見た現地人が、軍が引き上げた後もまたアメリカ人が天から現れて物資をくれないかなぁと思って木の枝などその辺にあるもので空港とか管制塔とか、そっくりの模型を作って待ち惚けていたという話です。

本当にソックリに作っていたんですよね。それっぽく作った滑走路には木でできた巨大な飛行機模型を並べて、その横には木で櫓を組んで管制塔もどきを作って、そこの管制塔係の人は木でできたヘッドフォンを付けていたんだそうですよ。
笑っちゃいますよね。でも、その人達の気持ちを考えると笑い事じゃないですけど。

今のクリスマスって、傍から見るとカーゴ・カルトの人達が作った模型のように実態のない、ただの模型だと思うんです。まあ、誰も本気にしていないだけマシですよね。
あ、いや、熱心なクリスチャンと親のプレゼントを期待している子供には申し訳ない。儀式を行う人は、儀式は実態ではないことを知りつつ執り行っているのでしょうし。

 それから、なんと言いますかこれは本当に私の心を痛めていることなんですが、親がその実態の無いクリスマスプレゼントを餌にして、自分の子供を支配する道具に利用しているという事が残念でなりません。良いことをするとプレゼントが貰えるというやつです。そうやって、親の都合の良いように自分勝手にサンタクロースが語られている。

僕はね、親は親、サンタクロースはサンタクロースだと思うんですよ。それが何で、親がサンタさんの替わりにそうやって語るんでしょう? 親ってサンタクロースの預言者ですか? それに、人とサンタクロースとの関係は個人的な関係じゃないですか? どうしてそこに割り込んでくるの? 大体親自身、本気で信じていないのでしょう?  自分が信じていない事なのに、子供に信じる事を強要しないでよ? そうやっていつまでも子供を操るつもりですか?

・・・済みません熱くなってしまいました。しかし、そう思います。

 そして、これは二重の意味で悲しい事です。つまり、そういう親の嘘はいつかはバレます。そうですよ嘘なんですから。
そうしたら、子供はがっかりですよね。今まで本気で信じて、自己犠牲の道を歩んできたのに。自分が本当はしたかったことを諦めて、サンタさんが良いという事を、サンタさんの為だと信じて行ってきたのです。
なのにですよ。それが、希望が偽りなら善悪の基準でさえ単に親が考えた偽りだったなんて、知った日には脱力するじゃないですか。自分の人生は何だったのだろう? 多分、悔しいですよ。怒りますよ。恨みますよ。性格が歪みますよ。

それでね。私がここでもっと重要な問題だと思うことなのですが、そのような体験をしてしまった人は、本当のサンタクロースを知ることが出来ないのではないかという事なんです。そこを心配しています。
偽りのまがい物に騙された、と感じている人は、本物を目にした時それを本物を見分ける事ができるでしょうか? むしろ、その分野のものは十把一絡げに全部ウソだと思って避けてしまうのではないですか?
私に言わせるのなら、それは本当に、極めて残念なことです。

更に悪い事を想像すると、偽物が作った心に空いた穴を別の偽物が埋めてしまいかねないだろうか、カルト宗教とか、悪質なオンラインサロンとかに時間と金を貢いでいる人たちの中には、子供の頃親に騙されて、ニセサンタクロースを信じていた人が多いんじゃなぃかなぁ。とまあ、これは根拠のある話では有りません。でもなんとなくそんな気はするんですよね。


・サンタクロース信仰

 では、サンタクロースとはいったい何なのかという事が重要になると思います。だってそうでしょう。プレゼントの全部が全部、親が自分で買ってきたプレゼントだったら、そこにはサンタクロースはいないという事になります。

僕はその実態を知りたいと思っています。ええ、今でも知りたいと思っています。

でも、自分はサンタクロースにどのようにして近づき、理解することが出来るのか、分かりません。瞑想すれば良いのか善徳を積めばよいのか・・・

しかし、無邪気な子供の心の中の願いを分かってもらえた訳ですから、まして一人の大人の人間が心のなかに探究心を抱いている事は、向こうにも伝わっているのではないかと思っています。

答えてもらえるかどうかですか? もちろん期待しています。単なるぼんやりとした憶測ではなく、はっきりとした印として何かしらの証が与えられるものと期待しています。それが、人がサンタクロースから貰える最高の贈り物だと思っています。

2020/08/19

2時間(第四の壁)

 


湊「こんにちは。ひょっとして、ここで待ち合わせをしている、ダイアローグの大林さんですか?」

大「あ、はいそうです。湊さんでいらっしゃいますね? はじめまして。私は湊さんの事を何とおよびすれば宜しいですか?」

湊「おじさん・・・と。あ、いや、みなとさんと呼んでください。それが普通ですから」

大「どうも湊さん。あらためまして、こんにちは、ダイアローグの大林です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」

湊「こちらこそ、よろしくお願いします。
しかし、なんだなぁ。嬉しいなぁ。君のような若くて快活な人と会話が出来るなんて。これで今からたっぷり2時間、2時間も会話が出来て3万円は高くないよ。うん。むしろ安いよ」

大「ありがとうございます。本当の所、正確には待ち合わせ時間から2時間をカウントします。あともう一つ事実を述べると、今私たちが行っているこのコントは、5分で終わります」

湊「5分って・・・ダメだよ、そういうメタフィクション的な言及は」

大「なぜですか?」

湊「なぜって、、だってこんな短いコントの中で、しかも開始早々に、そんな、第四の壁を壊したところで、受けないよ」

大「・・・受けない・・・。あそこの人には受けているみたいですけど」

湊「だから止めてよ。もういいよっ。

そうそう、何の話をしていたっけ。うんそうだ。早速だけどごはん食べに行かない。ごはん。ピザは好き? ここから歩いて行ける所に本格的なピザが食べられる店が有るのだけど」

大「いいですね。ピザ好きです」

湊「そうなんだ。それは良かった。ピザは何が好きなの?」

大「そうですね、トロピカル、照り焼きチキン、エビマヨネーズとか」

湊「ピザと言って真っ先にそれって、なんか変わった趣味というか。
んーそうか分かった。ピザという話題から話を発展させようとして、わざと燃料投下しているね? なるほど流石会話が専門のサービスだ。相手を挑発して喋らせるのが上手いね。

実はこれから行く店は本格的なピザ屋でね、ドウを手で捏ねて作る店なんだ。生の生地の上に生の素材を乗せて作るの。そして窯があってね。本物の石窯で、中で薪を燃やしているんだ。

窯で焼いたピザはいいよ。トマトには強く熱が伝わり生地はイイ感じに膨らんで、表面はパリッと、ちょっと焦げるんだけど、それがまた薪の香りがわずかについてとても旨い。
そうやって焼いたピザって、具は凄く熱くなるんだけど、でも水気もちょうど良い感じに残るんだよね」

大「美味しそうですね」

湊「だろ? やっぱり定番はマルゲリータだな。そこの店のマルゲリータは解けたチーズと焼かれたトマトが、熱いうちは緩くソース状になっていて、それを皿の上でナイフで切って食べるんだ。たまらないよ。

でも最近自分がハマっているのはチーズが乗っていないマリナーラというやつで、これはトマト、ニンニク、オリーブオイル、そしてオレガノだけのピザなんだが、そこの店はそもそも生地が旨い。そしてその上全ての素材が旨い。
それが熱で溶けて上は熱風で焼けて、一枚のピザになっているんだ。これは素朴な味わいで、もう何回食べても旨い」

大「美味しさが伝わってきます。湊さんはシンプルな調理がお好みなのですね?」


湊「そう。そうさ・・・。
 そして俺が望んでいたのはこれだ! 今俺は幸せを噛みしめている!」


大「まだ食べないうちから」

湊「違う違う。君の所属している、{あなたの生活に会話を、会話のお相手出張サービス、ダイアローグ} の話だよ。
欲しかったのはシンプルにこれ。話を聞いてくれること。

だって、例えば場末のスナックに入ったとするだろ? ママと呼ばれるそこの、まあ女将さんは、親切のつもりなんだろうが話を振って来るんだよ。つまらない話をさ。でも全然波長が合わないんだ。

評判の、相談に乗ってくれるという占い師の所にも行ってみたよ。そしたらそいつはろくに話も聞いてくれず、俺にあれこれ助言をして来るんだ。俺の事なんか何にも知らないくせに。

俺はただ話したいだけなんだ。話を聞いて欲しい。

だが、それがキツイといわれて女房には別れられた。子供にも話が長いと嫌がられている。本当は今日は子供との面会日で、子供と会える日のはずだったんだ。でも、コロナの影響でとか何とか言って会ってくれないんだよ」

大「それは大変ですね」

湊「そうだな。おまけに今は失業中だ。だから、誰とも話せていない。せいぜい職安の人位か」

大「それはまた、大変ですね。
あの、そんなに話したいことが有るんですか?」

湊「ある。あるある。沢山ある。一日中話したい」

大「よく渋谷の駅とかで、スピーカをもって話している人いるじゃないですか? こうやって、マイクを持って、コロナはただの風邪です。とか。ああいうのどうです? 一日話せますよ」

湊「うーんそうだねぇ・・・ってそれは街頭演説じゃないか。

いや演説は否定しないよ。内容はともかく、彼らだって主張があってああして喋っているんだろうし。

でもねぇ、俺にはそんな主張したい事はないんだ。それはよく分かっているんだよ。
俺はね、そういう、価値のある内容を話せる人間じゃないんだ。それは分かる。

ただ・・・、ただちょっとした幸せって有るじゃない? 日常のちょっとした事。やった事とか発見したこととか気づいた事とか。そういうのを話して、そしてちゃんとリアクションをもらって、つまり、歓びを分かち合いたいんだよ。

でも、わかっている。俺の話を聞く相手は、本当は全然喜んでいない。自分語りの自己満足なのさ。
君だってそうだろ? 仕事だから聞くんだ。ソーシャルワーカーだよ。
俺の話を喜んで聞く人なんて、一人もいないのさ」

大「そんなことは無いですよ」

湊「ありがとう。慰めてくれているんだね?」

大「いえ。本当です。本当の事です。
だって、ほら、見て。こんなに沢山のお客さん」

湊「だからメタフィクション的言及はヤメテ」

2020/03/12

kの見る夢




kの見る夢 
 背の高いソフトドリンクの瓶と背の低いソフトドリンクの瓶が並べて置いてある。
 うまい具合に重ねて行くと、背の高い瓶の方がより固く積まれた。
 人がそこから選んで持って行き、背の高い方は無くなった。

kはライター
 以前はシンクタンクに努めていた。
 下半身がしびれるようになり、上手く歩けなくなった。
 ハードで、人に会う必要が有るその仕事を辞めて、個人のペースで出来るライターになった。

 両手に松葉づえを装着している。足で歩く事は出来るが、意識をしないと足が動かない。
 しかも、動かすたびに、まるで下手に正座をしていて急に立ったような、強烈な不快感を覚える。
 このシビレはやがて足だけでは無く体全体を侵すと医者に言われている。

取材に行く
 閉鎖的空間の商店街。
 取材さきは2F。エレベーターを探す。
 人について行くと突き当りは階段だった。
 商店の店主に聞くと、エレベーターの有りかを教えてくれる。狭い路地の奥。
 エレベーターから移民のポーターが下りて来る。
 ニコニコしている。

 ニコニコしている人こそ信用できない。kはインタビューで相手にそう語るよう仕向けるつもり。

kの特殊能力
 左手にはポータブルICレコーダー 相手を安心させるため。
 右手はさりげなく、スーツの下に隠す。胸の上で指を折り曲げサインを作る。
 それにより、相手の感情を意のままにコントロールできる。
 後は、質問の言葉をちょっと工夫する事によって。ですよね? じゃないですか? ●●ですか?それとも○○ですか?
  言わせたい事を言わせる。

 日本に人工生命を普及させるつもり。
 人工生命は安心安全で経済的。
 話は通じるし空気も読める。
 男は美男子女は美人。

 Kは人工生命を作っている作成元の預言者。
 意識はやがて人工生命へ写される予定。
 
 

バッハの旋律を聴いたせいらしいです



こんな気持ちになるのは夜中にバッハを聴いたせいだと呟いたらブクブクと沼が泡立ちはじめさらに見続けてもずーっと泡立ち続け、藻と泥と木の枝がいい加減奇麗に退けられた頃に女神が出て来てこう言ったよ。

お前が聴いたというのは、ウィルヘルム フリーデマン バッハかカール フィリップ エマヌエルバッハかそれともヨハン クリスティアンバッハか?

僕は言ったさ。いえ、聴いたのはヨハン セバスチャンバッハです。てね。

久々の書きこみ

ひさ~しぶりに見たらgooglebuzzのサービス終了以来消滅していたアカウントが復活していた記念。(ログインできなかったのは私の何かの勘違いなのかもしれないけれど)